(1924年12月出版) No. 41(5.1)冬の千山之一 夏の千山は十分に紹介されてゐるが、冬の千山は未だ神秘の仙境として氷雪の下に睡つてゐた。此の寫眞は千山三難險の一として知られてゐる羅漢洞から見た景色で豪宕清明の氣、山嶺は容易に俗人を近寄らしめない感がある。 冬之千山之一 夏日的千山已被充分描繪過,而冬日的千山仍作為神秘仙境沉睡于冰雪之下。此照片攝自千山三大險境之一的羅漢洞,畫面雄渾清朗,山嶺凜然,似拒俗客于千里之外。 ![]() No. 42(5.2)冬の千山之二 千山の春、夏、秋、共にそれぞれの趣きはあるが、雪に飾られた冬の千山の景とは比すべくもない。紺碧の空、無限に連なる白妙の遠山、魔の如に聳えてゐる暗黑色の巨峯、此の崇高無比な景に當面した自分は今更に造化の作る偉大な藝術に驚歎する他はなかつた。 冬之千山之二 千山春夏秋三季雖各有風致,卻難與銀裝素裹的冬景相媲美。靛藍蒼穹下,綿延無盡的皓白遠山,與魔界般聳立的玄黑巨峰相對,面對此等崇高絕景,唯有再度驚嘆造化所創之偉大藝術。 ![]() No. 43(5.3)苦力部落の一角(支那風俗) 苦力が每年春先山東から海を渡つて滿洲にやつて來る數は大連ばかりでも數萬に上る。彼等は船から上陸するや否や直ぐに勞働に從事する而して稍々土地に定著するやらになれば何處から集めて來たか知らぬが木材端切れとアンベラと其處ら有リ合せの泥で堀立小屋を作つて生活の根據とする。此の堀立小屋は常に或る集團をなして郊外の野ッ原や山懷に或は崖上などに時には一夜にして一部落を出現することがある。此寫眞は大連寺兒溝の海岸近き赫土の斷崖に出來たテイビカルな苦力部落である。 苦力部落一隅(中國風俗) 每年初春,僅大連一地便有數萬苦力從山東渡海至滿洲。他們甫一登岸便投入勞作,稍作定居后,便用不知何處搜集的碎木料、草席與就地取材的泥巴,搭起了窩棚以作為生計的據點。這類窩棚常成群結隊地出現在郊野、山坳或崖頂,有時一夜之間便會形成部落。此照片是攝于大連寺兒溝海岸附近赤土斷崖上的典型苦力部落。 ![]() No. 44(5.4)鹽田潮汲用風車(產業) 關東州內は天日鹽產地として有數な地位にある。現在年產額三億斤生產は將來猶發展の餘地がある。潮汲用風車は戎克の帆から思ひ付いた頗る巧妙な而も原始的な動力で、支那人の自然力の利用の巧い處が窺はれる。 鹽田汲潮用風車(產業) 關東州作為天日鹽產地的地位顯赫,當前年產量三億斤,而未來仍有發展潛力。汲潮風車靈感源自帆船的船帆,從這種即巧妙又原始的動力裝置中,足見中國人在駕馭自然力上的智慧。 ![]() No. 45(5.5)蒙古牛車(蒙古) 日本人には廣いといふ感じは海を見た時にのみ其最大限を意識する。然るに蒙古の平原に於て見る廣茫たる景色は眞に驚嘆すべきものがある。日は原から出でて原に入リ、四方に擴がつた地平線內には一物の遮ぎるものがない。アノ草原に轍の跡を印し索リ行く牛車は何處の部落をさすのであらう。 蒙古牛車(蒙古) 日本人唯有望海時,方能體會遼闊的極致。然而蒙古平原的蒼茫之景更令人驚嘆,旭日自荒原升起又沉入荒原,在無垠的地平線上毫無遮礙。這輛在草原留下轍印而緩緩前行的牛車,究竟要駛向哪個部落。 ![]() No. 46(5.6)茂林廟本堂(蒙古) 境內一千の喇嘛僧を收容して居る。本廟の規模は頗る宏壯なものである。活佛を中心に昔は隨分修道堅固にやつて居たものだが、近頃は風紀が頗る亂れて居るとの噂だ。 茂林廟大殿(蒙古) 寺院內可容千名喇嘛僧眾,主殿規模極為宏偉。昔日以活佛為中心的修行甚嚴,然而近來風紀敗壞之說頻傳。 ![]() No. 47(5.7)郊外の平和鄉(北滿) 哈爾賓に行つた氣まぐれに、あの地の近郊をカメラをかついで徘ふたその折、郊外の田園にセットルした波蘭人の一家庭を見出した。歐洲戰爭の際戰禍を蒙つて子供が日本に救濟されたといふ經驗の持主であつたので、圖らずも晝飯の御馳走に預かつた。何時の頃から來住したのか聞きもしなかつたが牛を飼ひ鷄を養つて卵や肉や野菜には事缺かぬ貧しいと雖平和な日を過して居る。 郊外和平鄉(北滿) 偶訪哈爾濱時,扛著相機漫游近郊,于田園間邂逅了一戶波蘭移民。他們因在歐戰時孩子曾受到過日本的救濟,于是便熱情留我共進午餐。雖未詢及遷居年份,但見其飼牛養雞,蔬果肉蛋自給,過著雖清貧卻也安寧生活。 ![]() No. 48(5.8)街頭のエビソード(北滿) 街の踏切りを越して追ひかけて來たロスの青物屋のドビンスキイが、支那人の百姓を呼びかけてまたしても野菜の值段を值切つて居る。海拉爾は東支線中に於ける非常に豊富な野菜生產地である。 街頭即景(北滿) 俄國菜販多賓斯基,越過道口追趕著中國農民,試圖再次壓價砍價。海拉爾作為中東鐵路沿線重要蔬菜產區,其物產極豐。 ![]() No. 49(5.9)劍の舞(朝鮮) 妓生は朝鮮の歷史を語る花である。もと李朝時代官妓として養成されその幽艷にして古雅なる處は今尙市井の間にも殘されてゐる。そして平壤には妓生學校のある事は人も知る所寫眞は京城朝鮮ホテルの後庭に於ける官妓の劍の舞である。 劍舞(朝鮮) 妓生是訴說朝鮮歷史的活化石。李朝時代,作為官妓來培養的她們,那份幽艷古雅至今猶存市井。平壤設有妓生學校人所共知,此照攝于京城,是朝鮮飯店后庭官妓劍舞的場景。 ![]() No. 50(5.10)朝鮮の婦人(風俗) 頹廢の美、それは朝鮮婦人から感受する一つの印象だ。薄萌黃か或は水色がかつた裾長の裳を穿いて上半身白衣に包んだ彼の女の裝では、それ自身既にセンチメンタルな感じである。顏の弛んだ筋肉に漂ふ微笑はむしろ凄艷ではないか。 朝鮮婦人(風俗) 頹廢之美,這是朝鮮婦人留給人們的深刻印象。身著淺蔥或水色長裙,上半身裹素白衣裳的裝扮本身,已充滿哀愁。松弛面龐上浮動出的微笑,反倒透露了凄艷的韻味。 ![]() |
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來自: 悠然的魚2016 > 《雙語《亞東印畫輯》》